中野区ハイティーン会議から
中野区ハイティーン会議では、2011年6月から東日本大震災後に自分たちが何ができるかについて話し合いをすすめ、2012年1月22日にその結果を区長に報告しました。
詳しくはこちらをご覧ください。
http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/242700/d001447.html
会議の中で、当コーナー「子どもの目・子どもの声」に掲載されているメッセージを読み、自分たちが考えたこと・伝えたいことをまとめてくださいましたので、ここに掲載致します。
別ファイルで一括して読みたい場合にはこちらのPDFファイル
中野区ハイティーンメッセージ をご覧ください(ファイルの内容は以下のメッセージと同じです)。
【中野区ハイティーン会議メンバー、中3】
私はこのメッセージを読んでボランティアなどに復興に一生懸命な人もいるのに対して、政府の人たちの行動は冷たいと思いました。私は現在普通に生活することが出来ていますが、福島の人たちは今まで当たり前に出来ていた生活が出来なくなったんだなと改めて思いました。ハイティーン会議を通して私は今回の震災についての実感を改めて感じました。メッセージや取材を通して私が知っていたことや思ってきた事、経験してきたことより重く感じる事が出来ました。
【中野区ハイティーン会議メンバー、中3】
私が被災者からのメッセージで印象に残ったことは、「私たち、そんなに悪い事してきたかなあ」という言葉です。そんなに自分を責めないでほしいと本当に強く思いました。私は今回取材をして調べてみると、本当に情報公開不足だなと強く感じました。正しい情報を私は知ることが出来て良かったですし、大変良い機会になりました。周りの人たちに正しい情報をどんどん広めていきたいと思いました。
【中野区ハイティーン会議メンバー、中3】
私がこの被災者からのメッセージの中から印象に残ったのは「早く友達に会いたいです」というメッセージでした。私も震災後何度も学校に行けず、すごく退屈だなあと思いました。夏休みや冬休みと違い、4ヶ月も友達に会えないというのは本当につらい事だと思います。この子は小学校6年生という事で、一番遊びたい時期なのに、遊べないなんてとてもかわいそうだなと心が痛みました。早く復興して福島や東北の子たちにはいっぱい遊んでもらいたいと思います。私はこのハイティーン会議で今回の震災について深く学べたと思います。また、とても必要な経験をさせてもらえたと思います。
【中野区ハイティーン会議メンバー、高1】
私もこの取材の一環として、実際に福島のいわき市の方までボランティアに行きました。現地には夜行バスに乗って行きました。夜の9時にバスに乗って、夜の12時に郡山に着いたのですが、夜の12時から朝の8時までベンチに座って過ごしました。その途中で路上ライブがあったので見に行ったりしていましたが、現地の方たちに聞くと、郡山は昔は渋谷と変わらないくらいに活気づいていたのですが、今では自粛、自粛でだいぶ縮小されてしまったそうです。ただ、お店等がもっと福島を元気づけよう、もっと活気づけようと頑張っている姿は、以前とはまた違った活気が出ていると伺いました。喜多方観光というバスに乗り、いわき市に向かいました。中には地元喜多方の中学生、県外から僕と埼玉からと、山形からの3名と現地のおじいちゃん、おばあちゃんがいました。やっぱりその人たちに聞くと、放射線についてどう思う?「放射能?なにそれ?おいしいの?」と冗談めいたことを強い口調で言っていました。やっぱり放射能には負けたくない、自分の地元が大変になっているのに放射能なんかで僕らはつぶされたくないという意気込みが非常に伝わってきました。実際に僕がやったことは個人の家の土地を掃除して、がれきの撤去や依頼人の思い出の品の捜査、もしくは近所の方の遺品の捜査を手伝いました。なかには教科書、本当に使ったばかりの教科書と錠剤も海に浸かってどろどろな物、そして千円札とか本当に生活してたものが砂場に出て流されてそのままの形で残っている、というものが目立ちました。僕は現地の方は自分の事で手いっぱいで、僕らの方に気を使っている余裕なんてないだろうと思っていたのですが、実際は非常に優しい方たちで、僕らは暑いなかバケツに氷を入れてラムネ瓶を大量に持ってきたり、現地のビワをとってきて下さったり、非常に優しい方たちで、僕らは涙が出そうになりました。最終的に大変だったのがゴミ捨て、ゴミの分別が非常に大変で、がれきといってもコンクリートのがれき、家の瓦なども細かく分別しなければならなくて、それが非常に大変でした。そして、廃棄物処理者はミニバン、個人の車を改造したようなもので、そんなに積めるものでもないので、5,6回に分けていったので、そのたびに分別し直さなければならない等、非常に大変だったという覚えがあります。帰り際には現地の人たちとも仲良くなり、またボランティアに行けるなら行きたいと思います。
【中野区ハイティーン会議メンバー、高2】
私が投稿メッセージの中で一番印象に残っているのが、「山田の復興があと10年後といわれていますが10年前に復興してほしい」という言葉で、この文がほとんど平仮名なのです。多分小学校低学年の子ですが、私が思ったのはこの子が10年後、10年前の山田とまではいかなくても、少なくとも町を見て津波のことを思いださない程度になれるようなそういう手助けをしたいと思いました。私は祖父母が福島に住んでいて、津波の被害には幸い遭わなかったのですが、余震のせいでその家から離れなければならなくなって、親戚の家を転々として、ようやく落ち着いてきた状態です。地震というのはそのような身近な物まで壊してしまうんだなと思いました。
【中野区ハイティーン会議メンバー、高1】
様々な報道等で、東北頑張れ、というようなことが書いてありましたが、私は、頑張れという言葉が、あまりいい意味で使われていないと思いました。もちろん今もちょっと前の東北の方々は復興しよう、と頑張っています。頑張っているのにも関わらず、頑張れ、頑張れと何か押しつけがましいような気が自分はしました。ですので、復興頑張ろう、頑張るとかではなくて、一緒に力を合わせて復興していこうというように思い、そういう風に実行していきたいと私は思います。
【中野区ハイティーン会議メンバー、高2】
私は、個人的な学校の研究で校内の全校生に対してアンケートを実施しました。アンケートを集計したところ、ほとんどの家庭で懐中電灯などの避難用具をあらかじめ用意し、地震等の災害に対して意識をしていました。しかし避難用具を用意せず揺れてる途中も何もしなかった人も何人かいました。被害を少しでも減らすためにもっと防災に対する知識を多く持ってもらいたいと私は思います。
※2012年1月22日に開催した中野区ハイティーン会議報告会にて発表したものです。